以下に、「歳旦帖」を例にして個人的な印象を述べます。ブログでは、年初の読み応えある句帖であったと記憶しています。お声掛け頂き、私も「俳句帖」6シリーズに参加させて頂きました。
それでは、ずうずうしくもこの冊子に何を期待したかといえば、発表形態が電子データから紙ベースになると印象はどうかという点です。私は筑紫磐井氏の<ブログから紙媒体へ>との試みを面白いと思いました。ブログでは、各「俳句帖」は四~八週にかけて、数名毎に掲載されました。それが冊子では一挙に掲載されます。巻物を広げたように、その季ごとの句が繰り広げられるのを読んだなら、どう感じるかを体験してみたいと思いました。
第一印象は「困惑」でした。冊子では、句の掲載順が到着順からあいうえお順に変更になっているので、最初はそのためかと、思ってみたりしました。ブログでは、各人の句が独立していましたが、ページを埋めるように句が並びます。期待した通り巻物を伸べたようではあるけれど、何というか混沌としていました。ひと通り最後のページまで読み、繰り返し読んでみました。
そして私は自分の固定観念に気付きました。無意識に、多数の句の流れに意味を見出そうとしていました。調和を求めたからこその困惑だったのです。この冊子は系統の異なる俳句を愛する者たちの多様な作品集なのです。混沌が当然だし、むしろそこから生まれる力を味わえばいいのでした。
且つ多種多様な句が行合ながら掲載されることで、全体としてその季らしさを表現し得ることができるのです。読者は、自身に呼びかける歳旦を祝う句を好きに拾うことが可能です。俳句の宇宙のようです。これはこの冊子の楽しみ方の一つだと思います。
紙ベースでは、ページを繰ることは視野が広がってゆくかのように感じます。これは私が紙ベースの方が慣れているからかもしれません。冊子では穏やかに情報が続き、心惹かれる句にはゆっくり立ち止まることができます。
一方ブログの場合は、展開は潜行型に感じます。光として飛び込んでくる情報は、強い印象をもたらしますが疲れます。ブログで、冊子のように各俳句帖を一気に見せられたら、ボリュームを確認した時点で閉じてしまうかもしれません。数名毎の掲載は聡明なご判断なのだったと得心しました。
また、ブログで読んでいた時には、各俳句帖を全体として考えたことはありませんでした。勿論考える必要も感じませんでした。ですが冊子として手にした時、1句1句を一つの季の構成要素として味わいたいと自然に思いました。改めて冊子と電子媒体は、用途が異なることを実感しました。それぞれの良さを活かすには、工夫が必要なのです。
俳句帖を紙ベースで読んだことで、私は少し自由になったように思います。不自由だったというわけではありません。空間が広がった気がしたのです。新しい空間に出会いました。俳句新空間です。
【筆者略歴】
- 小澤麻結 (おざわ・まゆ)
「知音」同人。句集『雪螢』、共著『超新撰21』。